武器としてのコーポレートガバナンス 

11 5月 2022

コーポレートガバナンスが経営の大きなアジェンダとして認識されるようになってから10年近い年月が過ぎた。コーポレートガバナンス改革に関しては、金融庁・経産省といった経済系官庁の深い問題意識・強烈な危機感が先行した感もあり、多くの企業にとっては、黒船的な外圧として捉えている向きも多いのではないかと想像する。

すなわち、経営として対応すべき論点がまた一つ増えた、という捉え方である。しかしながら、これは大きな誤りであると言わざるを得ない。

株式会社という組織形態の成り立ちとその根幹に求められるガバナンス

まず株式会社の成り立ちを考えてみよう。日本の法体制下においては、合資会社、合名会社、合同会社、および株式会社の4つの会社形態が可能である。

この中で、株式会社は特殊な位置づけにあると言える。株式会社は事業資金(DebtとEquity)の出し手を前提として存在している形態である。つまり、株式会社の構成員である従業員や経営者は、自己資金の拠出を求められることはない。

言い換えれば、株式会社は、資金の出し手と組織構成員という2種類の異なった人材が関与した結果、成立している組織形態だ。これは他の会社形態とは明らかに異なる特質であり、その株式会社の本質的特徴は「所有と経営の分離」として広く知られている。

つまり、株式会社はその成り立ちから考えて、法的経済的に所有者である資金の出し手(特に請求権順位が最劣後である株主)へのアカウンタビリティを果たすことがアプリオリに求められている。コーポレートガバナンスは、決して外圧によって生じたものでもなく、また新たに発生した経営のone of topicsでもなく、株式会社である以上根源的に求められる取り組みなのだ。

しかし、日本企業の多くは、"サラリーマン共和制"とも揶揄されるように、経営陣も従業員も外部のステークホルダーへの意識は希薄である。こうした"共同体"的性質を持つ組織においては、時に外部者の見解を「邪魔者」「ノイズ」といった受け止めさえ示されることもある。このように外部を異端なものとして取り扱い、内部者だけで意思決定・判断を行ってきたことが、経営品質を劣化させ、"稼ぐ力"を低下させ、「失われた20年」(最近では「失われた30年」と評されることもある)を招いてきたのではないか。

自社の志・大義を問い、アカウンタビリティを向上させ、展開する経営戦略ストーリー

アカウンタビリティを高めることは、決して「新たに発生した余計な仕事」などではない。それは自らの意思決定を振り返ることであり、経営判断の是非を事後的に検証可能とする試みでもある。別の言い方をすれば、経営判断の見える化であり、分かりやすい経営判断のストーリー展開ができているかどうかを検証することだ。それはとりもなおさず、組織のケイパビリティを高め、経営能力の向上に資するものであり、経営のストーリーを組織内にインストールしやすくする試みでもある。すなわち、コーポレートガバナンスへの取り組みは、経営陣が社内外のステークホルダーに対して、自社の企業価値向上と社会課題解決に向けた骨太の戦略ストーリー、自社の志・大義を問うことである。従って、コーポレートガバナンスへの取り組みに消極的である企業は、自社の企業価値向上と社会課題解決に向けた骨太戦略ストーリーを構築する能力がない、志・大義に欠ける企業であるとみなされても仕方がないのではないだろうか。

コーポレートガバナンス・コードについても、使い方が重要だ。記載されている内容は、多くの企業に共通する一つのベストプラクティスに過ぎないのであり、全ての企業に等しく機械的に適用されるものではない。従って、コーポレートガバナンス改革を進めるにあたって、入り口の時点でチェックリスト的に用いるのではなく、自社ならではのコーポレートガバナンスのあり方を考えた後で、コードの内容を参照する、という使い方が正しいのだ。仮に、コードの内容と自社ならではのコーポレートガバナンスが相違すれば、堂々とその理由を説明すれば良い。コーポレートガバナンス・コードはソフトローであり、プリンシプルベースアプローチで構成されている。コード内容と違えども、きちんとアカウンタビリティを果たせば、何の問題もないどころか、むしろ望ましいと言える。

自社の志・大義を問い、アカウンタビリティを向上させ、展開する経営戦略ストーリー

アカウンタビリティを高めることは、決して「新たに発生した余計な仕事」などではない。それは自らの意思決定を振り返ることであり、経営判断の是非を事後的に検証可能とする試みでもある。別の言い方をすれば、経営判断の見える化であり、分かりやすい経営判断のストーリー展開ができているかどうかを検証することだ。それはとりもなおさず、組織のケイパビリティを高め、経営能力の向上に資するものであり、経営のストーリーを組織内にインストールしやすくする試みでもある。すなわち、コーポレートガバナンスへの取り組みは、経営陣が社内外のステークホルダーに対して、自社の企業価値向上と社会課題解決に向けた骨太の戦略ストーリー、自社の志・大義を問うことである。従って、コーポレートガバナンスへの取り組みに消極的である企業は、自社の企業価値向上と社会課題解決に向けた骨太戦略ストーリーを構築する能力がない、志・大義に欠ける企業であるとみなされても仕方がないのではないだろうか。

コーポレートガバナンス・コードについても、使い方が重要だ。記載されている内容は、多くの企業に共通する一つのベストプラクティスに過ぎないのであり、全ての企業に等しく機械的に適用されるものではない。従って、コーポレートガバナンス改革を進めるにあたって、入り口の時点でチェックリスト的に用いるのではなく、自社ならではのコーポレートガバナンスのあり方を考えた後で、コードの内容を参照する、という使い方が正しいのだ。仮に、コードの内容と自社ならではのコーポレートガバナンスが相違すれば、堂々とその理由を説明すれば良い。コーポレートガバナンス・コードはソフトローであり、プリンシプルベースアプローチで構成されている。コード内容と違えども、きちんとアカウンタビリティを果たせば、何の問題もないどころか、むしろ望ましいと言える。

志を実現する経営課題としてのコーポレートガバナンス改革

2016年、ある新聞紙上でコーポレートガバナンス改革に関する15回の連載を執筆する機会を頂いた。その中で、私は「コーポレートガバナンス改革とは経営改革そのものである。なぜならば、外部へのアカウンタビリティを果たすことは内部の論理に拘泥することからの脱却が必要であり、その脱却を成功させるとともに、外部への力強い戦略ストーリーを語ることは日本企業の意思決定のあり方・プロセス・構造を変革することにつながるからだ」と述べた。当時、この主張に対し「少し大げさではないか」、「ガバナンス改革はそこまでのマグニチュードをもたらす改革とはなりえない」というご批判・ご意見も頂戴した。しかしながら、ここ数年のコーポレートガバナンス改革の歩みを見れば、その結果は明らかであろう。

株式会社は、様々なステークホルダーが企業のパーパスやミッションに共鳴し、その志を実現する"器"という側面を持つとともに、債権者と株主という2種類の事業資金の出し手から資金提供を受けて事業を営むという組織形態である。すなわち、事業資金の出し手から見れば、投資・貸与した資金に見合うリターンが返ってくるのか否か、という投資対象の"金融商品"の一つであるという側面も持っている。

従って、“器”という側面から考えれば、自社の従業員や様々な協力者(フリーランスやギグワーカーを含む協力会社など)や取引企業に対して自社ならではの魅力や成長性・安心材料を語ることは極めて重要だ。また、“金融商品”という側面から考えれば、他の金融商品に比して自社ならではの魅力を語り、骨太の戦略ストーリーを訴えかけることは稼ぐ力の強化という観点からも必要不可欠である。すなわち、コーポレートガバナンス改革の取り組みは、株式会社を経営することそのものであるとも言えるのだ。

コーポレートガバナンス改革は一過性のものではなく、株式会社である以上、永続的に取り組むべき課題であり、特に同質性・同一性が高い組織である日本企業においては、極めて重要な経営課題であると我々は考える。

 

書籍 『武器としてのコーポレートガバナンス』(発行:中央経済社)の詳細も併せてご確認ください。

著者
井上 康晴

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