海外の買い手の視点から見たOUT-IN M&Aの留意点 -医療保険を切口として- 

海外の買い手の視点から見たOUT-IN M&Aの留意点 -医療保険を切口として-

12 3月 2024

忘れがちなOUT-IN M&Aの大前提

現地プラクティスへの理解はクロスボーダーM&Aの大前提である。海外の買い手、特に欧米系の買い手は、過去のM&A成功経験や自身の方法論に自信があるのだろう、日本企業を買収・統合する際に、対象企業を取り巻く現地のプラクティスを理解しようとする意欲は日系の買い手に比べると低いように感じる。読者の中には、外資系企業で本社の人事制度を日本法人に課せられ、対応に苦労した経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないだろうか。

外国企業による日本企業のM&Aは、一般的に「OUT-IN M&A」と呼ばれている。その中には、日本企業が海外子会社・事業を外国企業に売却したディールや経営権の移転を伴わないマイナー出資などが含まれることもある。本コラムは取引の実態をより明確するために、日本での外国企業による日本企業・事業の買収を「OUT-IN M&A」とし、海外での日本企業による外国企業・事業の買収を「IN-OUT M&A」とする。この定義に基づけば、OUT-IN M&Aの件数はここ数年一貫して50-60件前後に推移しており、2023年ではなおIN-OUT M&A件数の20%を下回る水準である。

IN-OUT・OUT-IN M&A件数推移

出所:レコフM&Aデータベースからマーサーが作成
IN-OUTは、海外において日系企業による外国企業・事業の買収、OUT-INは、日本において、外国企業による日系企業・事業の買収とそれぞれ限定

上図の通り、IN-OUT M&Aに比べ件数が少ないことも一因と考えられるが、OUT-IN M&Aに関してはこれまで組織・人事の観点であまり語られてこなかった。この機会に、海外の買い手の視点から日本企業・事業を買収する際の留意点について、医療保険を切口として試論してみたい。

なお、本稿はIN-OUT M&Aに対する筆者の観察を抽象化・一般化した見解である。個別の案件について言及しているわけではない旨、ご理解いただきたい。

医療保険の運用リスクと移行リスク

各種福利厚生のうち、企業と従業員が重視する項目は国によって異なるが、米国等多くの国は医療保険が特に注力する傾向にある。その理由は、多くの国では、①公的医療保険制度だけでは給付水準が十分でなく、企業が提供する民間の医療保険が重要な役割を果たしていること、②法的要件を満たす限り、保険形態(完全保険型/自家保険型)や保険会社・プランの選定、給付水準、コスト負担(企業・従業員負担)の決定等、運用面においては企業・従業員に相応な裁量があることが挙げられる。

例えば、米国では、企業が一般的に従業員のニーズや経済合理性を考慮して定期的に保険プランを見直している。従業員も、企業が提供する複数のプランのうち、毎年自身の健康状況に応じて最適と考えるプランを選択する。健康に自信があり、病気にかかる可能性が低いと判断する従業員は、医療費の自己負担分が高い(その代わりに保険料が相対的に安い)プランへの加入を選択する。

このような背景から、多くの国では、M&Aに伴うHRDDにおいて、主に運用リスクの観点から医療保険を評価する。HRDDを通じて現行の医療保険が法的要件を満たしているかどうかを確認すると同時に、給付水準やコスト負担が市場慣行と比較して著しく乖離していると判明した場合には、M&Aをきっかけに保険の見直しも検討する。一方で医療保険市場に多数の選択肢があり、プランの見直しや切り替えも定期的に検討・実施しているため、医療保険の移行リスクはそれほど問題視されないケースが多い。

これに対して、日本の医療保険制度は国民全員を公的医療保険で保障している国民皆保険制度であるため、給付内容や医療費の自己負担割合等は原則的に政府が定めている。なお、企業が加入している健保組合によっては、通常の法定給付に加え、付加給付という組合独自の上乗せ給付を行うことも可能だが、一企業としての裁量はかなり限定的だ。つまり、日本の国民皆保険制度下では、日本企業が自主的に医療保険のプランを比較し選定する環境ではないといえる。裏を返せば、対象企業の医療保険は運用上市場慣行から大きく逸脱するリスクも比較的に低いのではないだろうか。

他方、OUT-IN M&A において、HRDDで医療保険を精査するポイントとして、医療保険の移行リスクに際し留意すべき点について触れたい。M&Aに伴って現行の健保組合への継続加入が可能かどうかをまず確認する必要がある。特に大手企業グループ傘下の子会社・事業を買収する場合、一般的に加入していた売り手グループの健保組合への継続加入ができなくなるため、他の健保組合または協会けんぽへの移行が求められる。その際には、移行先の健保組合・協会けんぽの加入条件や保険料率等の精査と比較、条件変更に伴う従業員への補填要否と具体策の検討、(コストインパクトが相応にある場合)買収価格への反映、移行手続きと所要時間の目安等の確認等々、クロージングを見据えて、円滑に移行できるように早期の検討とプランニングが肝要である。なお、マーサーでもM&Aによる健保給付の差を補填する医療保険の相談を受けるが、その際には民間の福利厚生保険を最適設計して提供することが多い。

海外の買い手が日本の医療保険のこのような仕組みを十分に理解せず、自国の慣行を踏襲した方法論と問題意識でHRDDを実施すると、医療保険の移行リスクを見落とす可能性がある。その結果、対処の遅れによる買収後の混乱と従業員モチベーションの低下を招くリスクがある。

現地プラクティスへの相互理解に尽きる

上記医療保険に関わる留意点は、日本のプラクティスを理解していれば、通常 PMIや買収後のビジネスプランを阻害するような重大なイシューではない。しかし、医療保険のように、日本の人事制度はユニークだ。海外の買い手が今まで自国でのプラクティスやモデルに関わらず、ゼロベースで対象会社の人事制度とそのバックグランドを理解していくことはOUT-IN M&Aの際にまず意識すべきポイントだと感じている。

逆に売り手や対象企業のHRも医療保険のように、海外の買い手がなぜこのようなアプローチを取っているのか、そのバックグランドを理解し、日本のプラクティスやその理由を積極的に買い手に発信していくことが、OUT-IN M&Aのディールないし後続のPMIプロセスをよりスムーズに進めていくには効果的なのではないだろうか。

著者
裘 吉棟
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