人材を惹き付ける福利厚生:医療保障制度が企業選びの決め手に 

25 11月 2024

昨今、「福利厚生の一環として、従業員とその従業員の扶養家族に対して入院や手術時の費用を補償する医療保障を提供できないか』という相談が企業の人事担当者から増えている。現状、マーサーマーシュベネフィッツ(MMB)の2024年度クライアントデータによると、法定を超えた福利厚生として民間の医療保険などの医療保障を従業員に提供している企業は全体の20%に満たない。さらに、従業員本人に加えて従業員扶養家族にも医療保障を提供している企業は1%未満である。

社会保障の持続性が不安視され、企業が社会保障の穴埋めの機能を担っていくと予想されている1今日、福利厚生として企業が従業員などに提供する医療保障について重要視されていくと考えられるが、どのような制度が企業に求められているのだろうか。 本コラムでは、諸外国の制度を参考として、今後企業が人材獲得競争を生き抜くうえで、どのような医療保障を従業員、またその扶養家族に対して提供していくべきか、筆者の予想も交えながら論じる。

佐々木 壱佳, マーサーコンサルタントコラム 「健康保険危機に備える従業員福利厚生制度

1. 日本における医療保障制度の現状

はじめに、日本の医療保障制度について理解する必要がある。

日本では、国民皆保険制度を採用しており全国民は健康保険など何らかの公的医療保障制度に加入している2。企業などに勤める人(被用者)およびその扶養家族は、雇用先が加入している健康保険組合や共済組合などの被用者保険を通じて保障されている。しかし、「公的医療保障のみでは不十分」と考える一部の企業では従業員福利厚生の一環で、民間の医療保険(団体医療保険などの医療保障)を従業員に対して提供している。

従業員が受けられる医療保障制度

この公的医療保障制度は、戦後改革の一部として高度経済成長期の1961年に作られた。農民や自営業者、そして当時女性の7割近く3を占めていた専業主婦を含めた全国民が一定の自己負担費用で医療にアクセスできるよう作られた制度である4。さらには、一定の医療費を超えた場合などに還付が受けられる高額療養費制度もある5

しかし、この公的な医療保障制度のみでは事故や病気にかかった際の備えとして十分ではないと考える企業もあり、民間の医療保険を福利厚生として従業員に提供している。これらの企業は、全体の2割に満たないが、先進医療費用や差額ベッド代など、公的医療保障制度では補償されない部分を企業として保障することで他社との差別化や従業員満足度向上を策している6

日本国内で働く被雇用者に適用される医療保障制度概要

出所: 保険証を提示して治療を受けるとき | こんな時に健保 | 全国健康保険協会 (kyoukaikenpo.or.jp) 、マーサーマーシュベネフィッツ(MMB)のクライアントデータを元に筆者作成
2 厚生労働省, 我が国の医療保険について |厚生労働省 (mhlw.go.jp)
3 厚生労働省, 第2節 変わりつつある女性や夫婦の働き方 (mhlw.go.jp), 厚生労働白書, 2002年
4 厚生労働省, 厚生白書(昭和36年度版) (mhlw.go.jp)
5 厚生労働省,我が国の医療保険について |厚生労働省 (mhlw.go.jp)
6 マーサーマーシュベネフィッツ(MMB)のクライアントデータ

2. 諸外国の医療保障制度

次に、多くの在日外資系企業の本社が在る米国、英国7、そしてアジア地域での最大統括拠点となる8シンガポール、3ヵ国の医療保障制度について解説する。

米国

公的医療保険制度は、1966年に一部の国民を対象として始まったが、制度に加入できる対象者が限られていた9。2010年には国民全員が医療にアクセスできるようにと医療保険制度改革(オバマケア)が起こり、従業員数50人以上企業には従業員とその扶養家族に民間の医療保険等の医療保障を提供することが義務付けられた。その為、95%~99%の雇用主が従業員とその扶養家族に対しても医療保障を提供している。これらの企業が福利厚生の一環として提供する民間の医療保険は、一定金額までは自己負担が発生するDeductibles制度や、一定の自己負担割合が決まっているCo-payment制度など、その内容はプランによって異なる10

米国の医療保障制度

英国

1948年から国民保健サービス(NHS、National Health Service)が運営されている11。 この制度は同国民に必要な医療を基本的に無料で提供することを目的とし、税金を財源にして運営される公的医療制度である。NHSはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドでそれぞれ独立して運営されているため、自己負担額等は居住する地域によって異なる12。しかし、専門医の予約が取りづらい等の弱点を抱えるNHS13では不十分と考える全体の約50%の企業では、福利厚生の一環として民間の医療保険の提供を行っている。

シンガポール

国民に責任を持たせる「自助努力」をスローガンとしているシンガポールでは、医療費は基本的に国民の自己負担となるが、備えとして医療費を積み立てさせるというメディセーブ制度が存在する14。しかし、これらの積立金は高額医療や透析のみに適応されるなど十分な備えとはならないため、企業が福利厚生として提供する医療保障が重視されており、約97%の企業で民間の医療保険を提供している15

シンガポールの医療保障制度

7 日本貿易振興機構(ジェトロ)対日投資部, 2022年度外資系企業実態アンケート調査結果概要,2023年
8 日本貿易振興機構(ジェトロ),アジア大洋州地域における日系企業の地域統括機能調査報告書, 2024年
9 長谷川千春, アメリカの医療保障システム, 2010年
10 日本貿易振興機構(ジェトロ),米国における医療保険制度の概要,  2021年
11 NHS England, NHS England » NHS History,作成年月不明
12 Michael Anderson, Emma Pitchforth, Nigel Edwards, Hugh Alderwick, Alistair McGuire, Elias Mossialos, European Observatory on Health Systems and Policies, United Kingdom: health system review 2022, United Kingdom: health system review 2022 (who.int), 220, 2022
13 外務省,英国|外務省 (mofa.go.jp),2023年
14 Government of Singapore, CPFB | Using your MediSave savings, 2024
15 真野俊樹,中央大学大学院 戦略経営研究科教授, https://www.jkri.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2024/10/sogo_89mano.pdf, 2024

3. 日本と諸外国の医療保障制度を比較して見えるもの

例を挙げた3ヵ国の医療保障制度と日本の医療保障制度を比較すると、以下2点の違いがあることが分かる。
  1. 公的保障の抜け穴を、企業が提供する医療保障制度(民間保険など)で補完している
    米国では公的医療保障の対象者が限定的である為、企業が民間の医療保険を従業員とその扶養家族に対提供しており、シンガポールでは自己負担が発生する公的保障を補うために、企業が福利厚生として民間の医療保険を提供している。また、公的保障が手厚い英国でも、予約が取りにくく専門的な診療が受けづらいとされるNHSの弱点を穴埋めする形で企業が民間の医療保険を提供している。これにより、国内労働者が過度な経済的不安を抱えることなく必要な医療にアクセスでき、安心して働き暮らせるという大切な役割を担っているため、これらの福利厚生としての民間の医療保険は従業員からすると、なくてはならない存在となっている。
    一方、日本では診療を受ける医療機関を選択することもできる利便性の良い国民皆保険制度があるため、企業による民間の医療保険の提供は諸外国に比べて普及していない。
  2. 扶養家族の取り扱い
    日本では、一定年収に満たない扶養された家族を『扶養家族』と定義づけ、従業員本人と同じ健康保険に家族単位で加入することが一般的となっている。一方で、米国や英国、シンガポールでは一人ひとりで個別の保障制度に個人単位で加入することが主流となっており、子供や無職、雇用先での保険加入が難しい家族のみを公的医療保障の対象となる『扶養家族』とすることが多い。
    また、米国、英国、シンガポールでは、同性パートナーや事実婚パートナーについても『扶養家族』と認めるケースが多いが、日本では法的な婚姻関係などを重視するため、同性パートナーなどは対象外となっている。

このように、国によって医療保障制度、制度に関する考え方の違いが存在する。実際に、米国の福利厚生満足度調査によると88%の回答者が『企業が提供する民間医療保険を一番重視している』と回答しており16、福利厚生制度の中で医療保障が最重要メニューであるとされている。このような背景を踏まえると、米国本社の企業で、日本オフィスの福利厚生制度についても米国本社でデザインされる場合には、日本で勤める従業員とその扶養家族向けにも民間医療保険の提供を充実させる企業が増えてくるだろう。こうした医療保障制度に注力する外資系企業の参入が増えると、それらの企業と人材獲得競争で戦う日本国内の企業は外資系企業に限らず、従業員とその扶養家族に対する医療保障提供に注力していくのではないだろうか。医療保障を福利厚生メニューに追加することで、平均よりも手厚い福利厚生制度を提供しているという差別化アピールにもつながるからだ。

従業員としても、健康保険の縮小化が続く17と言われている日本では、『セーフティーネットとしての医療保障制度が整えられている、安心して働ける企業』を自身の職場の選択肢として選ぶようになるだろう。また、そのニーズに答えるよう医療保険商品の開発に注力する民間保険会社数も増えていくと考えられる。

人材獲得競争を生き抜くため、そして企業で働く従業員に安心感を与えるために、企業が提供する医療保障がさらに大きな役割を担っていくと筆者は考える。本コラムでは日本の医療保障制度と諸外国の医療保障制度の比較から、今後求められていく福利厚生制度を予想してみた。現在の日本で、従業員が求めている『医療保障制度』とは何か、再考するきっかけとなれば幸いだ。

16 SHRM 2024 Employee Benefits Survey , https://www.shrm.org/topics-tools/research/employee-benefits-survey,
17 佐々木 壱佳, マーサーコンサルタントコラム 「健康保険危機に備える従業員福利厚生制度
著者
貴山 陽子
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