人的資本経営の本質を問う  (第4回) 

人的資本の情報開示の方向性(後編)

日本CHRO協会発行CHRO FORUM第53号(2023年10月号)
※本記事は、日本CHRO協会発行CHRO FORUMのために書き下ろされた記事の再掲載です
第1回第2回では、人的資本が注目される背景や競争優位の源泉である人的資本の特徴、人的資本経営の戦略的な意義について、第3回は、人的資本の情報開示の方向性(前編)として、政策の動向や、人的資本開示の意義・要諦について解説した。第4回では、人的資本の情報開示の方向性(後編)として、人的資本への投資ストーリー構築や開示の実務について、事例を交えて解説する。

1. 事業環境変化に対応する組織ケイパビリティの獲得

第1回で解説した通り、VUCAの時代である今日、事業環境の不連続な変化はどんな業界にも起こり得る。デジタル化等を背景に新しいビジネスモデルを開発して飛び地から自社の事業領域に参入する企業が出現するなど、これまでのゲームの前提が変わることがあり得る。そのため、立案した戦略を速いサイクルで点検・見直しをかけ、時に事業内容を転換(ピボット)する必要がある。同時に、競争優位の源泉が人的資本にシフトするゲームチェンジが起きていることから、戦略を現場で柔軟に軌道修正できる人材をサステイナブルに獲得・育成・リテンションできる組織ケイパビリティ(以下、組織ケイパビリティ)を獲得・向上させなければならない。これが人的資本経営の本質であると考える。

日本においても、組織ケイパビリティの獲得・向上に向けて、既に組織・人事改革に着手している先進的企業も多い。しかし、過去の成功体験から同質性・連続性の高い、旧来からの人材マネジメントから脱却できない、経路依存性の罠に陥っている企業も一定数存在すると思われる。現代においては、組織ケイパビリティを獲得・向上すべく、企業価値向上ストーリーに基づき持続的な人的資本投資を行い、そのプロセスや結果をステークホルダーとの対話を通じて磨き続けることを求められている。

2. 人的資本への投資ストーリー構築に向けて

2-1.経営におけるマテリアリティの特定

国際統合報告評議会(IIRC)が公表している国際統合フレームワークでは、資本は財務資本、製造資本、知的資本、人的資本、社会・関係資本、自然資本という6つに分類されている。これらの資本のうち、人的資本が経営のマテリアリティとしてどのように位置づけられるのかを他の資本との関係性においてストーリーに落とし込むことが、人的資本への投資ストーリー構築の第一歩となる。「人的資本は企業価値に占める比率が高い無形資産であり、社外から影響を受けず、能力開発が可能という意味ではコントローラブルで、持続的な企業価値向上に寄与する資本であるため、経営におけるマテリアリティといえる」という説明は多くの企業に該当するものだろう。この前提のもと、企業の長期ビジョンや戦略に基づいて、人的資本が経営のマテリアリティとしてどのように位置づけられるのか説明していくことになろう。

 

2-2.人的資本への投資ストーリー構築の前提

人的資本への投資ストーリーは、価値協創ガイダンス 2.0(経済産業省)のフレームワークに沿って、「長期戦略」、「実行戦略」、「成果と重要な成果指標」、「ガバナンス」の枠組みを用い、うち、「実行戦略」は、人的資本可視化指針(内閣官房)、人材版伊藤レポート2.0(経済産業省)を参考に構築することが有効なアプローチの1つである。人的資本投資も他の資本への投資と同様に、長期的な戦略の方向性からブレークダウンして実行戦略を描き、投資効果をモニタリングして絶え間ない改善を図るべきという趣旨である。

この趣旨に沿って、ここでは、人的資本への投資ストーリーを構築するにあたっての観点をご紹介したい。事業環境が大きく変化する現代においては、経営層が入念に練った戦略を上位下達で展開すれば、会社のパフォーマンスにつながる、というこれまでの直線的なマネジメントを変えていく必要がある。【会社・経営層】だけでなく【組織・管理職層】、【個人】がそれぞれの役割を理解・遂行することが重要である。先述した通り、現場レベルで戦略を柔軟に修正する必要があるためだ。

例えば、【会社・経営層】がパーパス定義・浸透、人的資本投資をし、【組織・管理職層】が経営の意図を解釈のうえ、事業をリードし、【個人】が業務の遂行を通じて能力開発・モチベーションを高めるという、「方針・意図の伝播」を行う。

さらに、【組織・管理職層】が組織パフォーマンスを更に高めるための個人への支援、人事制度や風土の両面で課題を定義し、【会社・経営層】が課題解決に向けてさらなる人的資本投資をするという、「風土・蓄積の伝播」を行う。このサイクルを間断なく回していくことが人的資本経営の骨格であるとも言えよう。中でも、【組織・管理職層】が組織ケイパビリティの獲得・向上において果たす役割は大きく、このサイクルを回す要となる。以下、この階層別マネジメントを切り口に説明を続ける。

3. 人的資本への投資ストーリー構築

3-1.長期戦略

長期戦略は、「長期ビジョンやパーパス」を実現するために、「目指す姿」と「現状」のギャップ、「ギャップの要因となりゆきのリスク」を特定するとされている。いわば、その先のプロセスとなる「実行戦略」を描く道しるべである。

「長期ビジョンやパーパス」の多くは、企業の目的達成など固有かつ普遍的なものであり、現代においてその実現は、絶え間ないイノベーションやポートフォリオの入れ替えなどによる、企業の持続可能性の担保が前提になると考えられる。組織ケイパビリティの獲得に課題を抱える企業の長期戦略は、次のような内容で描かれるだろう。一例としてご紹介したい。

【目指す姿】組織ケイパビリティの獲得

  • 会社・経営層 :経営層の多様化(属性・意見・専門性等)、社外取締役を中心とした取締役会
  • 組織・管理職層:戦略具体化、組織間連携、キャリア支援、オープンでフラットな風土醸成
  • 個人     :キャリア自律、挑戦思考

【現状】旧来からの人材マネジメントの実態

  • 会社・経営層 :同質性の高い役員構成、現状追認の意思決定
  • 組織・管理職層:戦略伝達、縦割りマネジメント、管理思考
  • 個人     :受身・現状維持思考

【ギャップの要因】旧来からの人材マネジメントを継続してしまう、経路依存性の罠に関する内容

  • 会社・経営層 :自社内での実績をベースとした登用、他流試合の経験不足
  • 組織・管理職層:上意下達、減点主義、人事主導の人材マネジメント
  • 個人     :会社起点でのキャリア形成(社員のオーナーシップ欠如)

【なりゆきのリスク】事業の財務パフォーマンスや成長性に基づく人材の配置・獲得・リテンションが進まず、組織ケイパビリティが低下するリスク

  • 会社・経営層 :最適ポートフォリオ管理や資源配分の意思決定が進まない、イノベーションを起こせない
  • 組織・管理職層:問題発見の遅れ、課題解決・戦略立案が困難、意欲ある人材の離職・採用難
  • 個人     :エンゲージメントの低下、低スキル傾向

 

3-2.実行戦略

実行戦略では、「なりゆきのリスク」を回避し、「目指す姿と現状のギャップを埋める人事施策」を検討していく。実行戦略は、網羅することを目的とせず、企業価値向上ストーリーに基づいて、自社独自で検討していく。下記は、組織ケイパビリティの獲得に向けた一例である。

  • 会社・経営層 :取締役会のメンバー再構成、サクセッションプランの的確な運用、パーパス浸透に向けた社員との対話、重点投資領域への人材配置等の最適人材ポートフォリオの実現、ダイバーシティの促進、社内ベンチャー制度・副業促進
  • 組織・管理職層:アンコンシャスバイアス解消促進、職種転換支援、プロジェクト・チーム組成、エンゲージメント向上に向けたキャリア支援、事業部主導の人材マネジメント
  • 個人     :社内公募への応募、専門性強化プログラムへの参加、公的資格取得、デジタルスキル研修の受講

このように階層別に実行戦略を描くことのメリットの1つは、長期ビジョンという(Why)に対して、行うこと(What)を定めるだけでなく、各施策の主語が明確となった上で、どのような状態を目指すか(How)をより定義できるため、ストーリーに飛躍がなく、投資家も社員も理解しやすいということ、もう1つのメリットは、実行戦略の解像度が上がり、次の打ち手を検討する際に有効であることだ。Howを定めることで、実行戦略が有効に機能している理由を明確にでき、実行戦略の継続性に自信を持てる。実行戦略が有効に機能していない場合であっても、問題の所在が明確となり、改善に向けた更なる投資先と投資内容を検討する示唆を得ることができる。

 

3-3.成果と重要な成果指標

実行戦略の有効性、つまり投資効果を測定するために、成果指標を定め、推移をモニタリングしていくことも人的資本への投資ストーリーの1つになる。日本では今年からサステナビリティに関する情報に含まれる形で人的資本情報の開示が本格化し、2023年3月31日以後に終了する事業年度に係る有価証券報告書等から(1)女性管理職比率、(2)男女間賃金格差、(3)男性育児休業取得率の開示が義務化されている(詳細は第3回を参照されたい)。

人的資本可視化指針(内閣官房)では、経営戦略と人材戦略の関係性(統合的なストーリー)を構築した上で、独自性(自社の戦略やビジネスモデルに沿った取り組みと指標)、比較可能性(企業間の比較が可能な典型的な取り組みと指標)を意識することが重要とされている。

成果指標は様々な項目が考えられるが、人的資本可視化指針(内閣官房)では、19の人的資本開示事項が示されている。ISO 30414では11領域49項目に対して、58の指標が例示され、58の指標は数(人数・件数)、比率、費用で主に示されている。ここでは、ISO30414で例示されている58指標のうち、エンゲージメントスコア、人的資本ROIの2指標に絞った考察を行いたい。

① ISO30414で示されている58の指標の多くは企業間で比較可能である。しかし、11領域のうち組織文化領域の1項目であるエンゲージメントスコアはベンチマークとの比較で注目されることもあるが、当指標は企業独自のサーベイ項目で実施・集計されていることがあり、他との比較が難しい場合もある。また、本質的にはスコアの比較よりも、自社における経年変化やエンゲージメントに寄与するドライバー(要因)に注目したい。

② ISO30414で示されている11領域のうち生産性領域の1項目である人的資本ROIは個別の施策に対する指標ではなく、総合的に投資効果を示している点が特徴である。日本においては人的資本ROIに限らず、投資効果指標を示している事例はまだ少ないが、人的資本投資のアウトカムとして、企業価値向上にどのように影響しているのかの研究が進んでいる。本稿では、人的資本への投資効果について開示している先進事例の1つとして、株式会社丸井グループを挙げたい。当社は、「IRライブラリー 人的資本経営 #1~企業文化の変革~」の中で、「人的資本投資はイノベーションを起こしやすい組織風土づくりを通じて、中長期的な企業価値向上につながる「当社独自の新事業」・「新サービス」を創出する」として、その創出を限界利益として定義し、限界利益が人的資本投資の「償却費」に対して上回ることで投資の有効性を証明している。また、投資効率指標として人的資本投資IRRを開示している。これによれば、17年3月期から21年3月期までの間に320億円の人的資本投資を行い、26年3月期までに560億円を回収する見込み(人的資本投資IRRは11.7%)としている。先進的かつユニークなものであると言える。

先に開示事例の多いエンゲージメントスコアについて言及したが、ここで弊社支援事例からの取り組みをご紹介したい。エンゲージメントスコアに寄与している企業固有のドライバー(要因)が何かを深堀し、自社における実態把握や施策の立案に活用していくというものである。具体的には、エンゲージメントサーベイ結果を集計に留めず、各サーベイ項目がエンゲージメントに寄与する度合いを回帰分析し、回帰係数が高い項目(高ドライバー項目)に注目する。そのうえで高ドライバー項目の満足度が高ければ強みとして継続して伸ばす。高ドライバー項目だが満足度が低ければ、重点投資先としてスコアを伸ばす施策を検討する。この一連の取り組みを、ストーリー立てて開示するというものである。是非、参考にしていただきたい。

最後に、開示する指標の時間軸と対象範囲について検討の視点をご提示したい。時間軸は、過去、現在、将来の時間軸でスコア(絶対値や成長率等)を開示すると、目指す水準と投資効果を時系列で追うことができる。現在値の高低よりも今後どのような実行戦略でスコアを高めていこうとしているのか、ストーリーを訴求することに軸足を置きたい。対象範囲の検討においては、現実的にデータの入手現実性の問題が立ちはだかるが、国・会社・事業・組織といった単位で検討を進めると実態の把握において有効であると言える。データの入手や活用に課題があるのであれば、人的資本開示対応を契機に情報システム投資を検討されたい。

 

3-4.ガバナンス

価値協創ガイダンス2.0(経済産業省)では、「本ガイダンスで示す事項は、制度的に求められる義務的開示やコーポレートガバナンス・コードの諸原則、さらには企業が自主的に行ってきた任意開示等と独立した追加的なものとして捉えることは適切ではない」とした上で、ガバナンスを「長期戦略や実行戦略の策定・推進・検証を着実に行い、長期的かつ持続的に企業価値を高める方向に企業を規律付ける仕組み・機能」として定義している。その上で、「取締役会と経営陣の役割・機能分担」「経営課題解決にふさわしい取締役会の持続性」「社長・経営陣のスキル及び多様性」「社外役員のスキル及び多様性」「戦略的意思決定の監督・評価」「利益配分及び再投資の方針」「役員報酬制度の設計と結果」「取締役会の実効性評価のプロセスと経営課題」を挙げている。これらを議論・整備していくことになるが、人的資本経営を磨き続ける基盤となるものである。

4. 最後に

ここまで、人的資本への投資ストーリー構築や開示の実務について事例を交えて解説してきた。人的資本経営はサステナビリティ経営の一環であり、人事部門だけの課題ではなく、経営課題そのものであるという認識が重要である。つまり、経営層がリードして、事業部門・人事部門、個々のメンバーを巻き込み、試行錯誤を重ねながらも力強く推進する必要があるということだ。

また、人的資本は“足”を持っており、投資をしても離職リスクがあることから人的資本への投資に消極的になってしまうことも耳にする。しかし、人的資本への投資を怠ることは自社の魅力の相対的な低下を招き、大きな流出リスクを抱えてしまうことを意識したい。VUCAの時代である現代において、事業環境変化に対応する組織ケイパビリティを獲得するためには、社内外の労働市場から人材を惹きつけ、持続的に投資をしていく必要がある。これこそが人的資本投資の本質であり、企業の競争優位性そのものになる。

執筆者
中村 拓哉

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